アマルティア・センとの学問との出会い: 貧困と飢餓の経済学
長い間、開発問題に興味を抱きながらも、学問としてアジアやアフリカの国での貧困や飢餓問題に特に注力しようと思ったのは、アメリカ留学時の経験がきっかけであった。ハーバード大学で博士号を取得し、卒業してから25年が経ち、同じ場所へ客員研究員として戻ってきた際、この名門大学の学術環境にあらためて感銘を受けた。ハーバード大学は学部や学科を超えてキャンパス全体で情報を共有する機会が多く、その中でも特に注目すべきメディアがHarvard Gazetteである。このメディアは定期的に回覧され、キャンパスで起きている出来事や興味深い記事が豊富に掲載されている。最近、1998年にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センに関する記事を読み、彼と彼の研究についての情報を共有したいと思った。センの研究に対する私の関心は、彼の論文を初めて読んだ1988年のコーネル大学に留学していた時に芽生え、その後、彼の業績と影響力に魅了され続けている。
アマルティア・センの近況
2021年6月発行された“The Harvard Gazette”の記事の中に1998 年ノーベル経済学賞受賞者アマルティア・セン(Amartya Sen)の近況についてかかれたものがあり、年齢を重ねて更に充実した研究生活を継続していることを知った。そんな中で、彼の新しい本「Home in the World: A Memoir」が、7月に英国と米国で 出版された。センの研究歴は65年に亘る。センはGazzetteのインタビューの中で「興味のない仕事をしたことは一度もない」と答えている。これを聞いて、現在も充実した研究生活を送っている証だと思った。
アマルティア・センの研究は経済と哲学の融合
アマルティア・センの研究は、経済と哲学の融合が特徴的である。通常、多くの経済学者は世界で起こっている出来事の説明と予測に焦点を当てることが一般的であるが、センは異なるアプローチを取り、経済学と哲学を組み合わせて、現実がどのようにあるべきかに注意を向けたことだ。彼のこの独自のアプローチは、福祉経済学の理論と福祉の測定に関する研究において、1998年にノーベル経済学賞を受賞することとなった。センの初期の研究は、特に植民地時代のインド社会における不公平に焦点を当てたものが多く含まれている。
飢餓と貧困:ケイパビリティ・アプローチ
センは飢餓についの研究と人々の幸福を正確に評価する研究で、経済学者は収入だけでなく、情報を考慮する必要があるという、新しい見解を示し、開発経済学と福祉経済学の考え方を変えた。これは、“Capability Approach”(ケイパビリティ・アプローチ)として知られている。政策が個人の人生の機会にどのように影響するかについての研究である。
また、セン (1983) は貧困は相対的なものであるだけでなく絶対的なものでもあると強調し、貧困を特定の最小限の能力を達成できないことと定義した。能力の欠如は絶対的なものであるとし、政策が個人の人生の機会にどのように影響するかについて研究した。
センの研究は国連の政策策定において多く影響を与えてきた。国連が評価で使用する開発指数は、彼の提案である。また彼はジェンダー研究も行っており、インド社会では男女差により健康にも差があることを示し、子供の生存率や栄養不良率においてジェンダーが関係していることを明らかにした。これらの研究をもとに国連にジェンダー問題を国連に提起した。
センの仕事は、開発とジェンダーに対する国連のアプローチの形成に影響を与えてきた。彼のケイパビリティ アプローチは、人間の能力と自由の観点から開発を測定する 国連開発計画(United Nations Development Programme: UNDP) で人間開発指数(Human Development Index:HDI)を提案した。
人間開発指数(Human Development Index, HDI)
HDIは、経済成長だけでなく、人間の生活の質や幸福度を測るための総合的な指標として用いられている。HDIは、アマルティア・セン(Amartya Sen)とマハブーブ・ウル・ハク(Mahbub ul Haq)によって提案されました。彼らは1980年代初頭から開発経済学の分野で共同研究を行い、人間開発の視点を経済成長や所得だけでなく、人間の能力や自由、社会的な機会にも注目する必要性を提唱した。HDIは、国の平均寿命、教育水準、一人当たりの所得などを指標として用い、国や地域の人間の発展状況を比較するための基準となる。
HDIの開発により、経済成長だけでなく、教育、健康、生活水準などの要素が含まれた包括的な指標が提供されるようになりました。これにより、国や地域の人間の発展を総合的に評価し、政策立案や開発の促進に役立てることが可能となった。
アマルティア・センの研究との出会いは1980年代
私がセンの論文をはじめて出会ったのは1980年代後半である。当時私はコーネル大学の国際開発学部修士課程に在籍しており、受講していた国際農業開発の授業で、彼の論文を読むことになった。どのジャーナルに掲載されていたのかは詳しくは覚えていないが、「ベンガルの飢餓」についての内容の論文を多く読んだ。センは、飢餓とは自然災害ではなく人災であることを証明したのである。当時、飢餓は自然災害で起きるものだと言われ、多くの学者はこれを信じていた。それを人災であることを原因づけたセンの手法に深い感銘をうけた記憶がある。
コーネル大学卒業後、私はハーバード大学公衆衛生大学院博士課程に入学した。その時のメイジャーは国際開発ではなく、栄養疫学であった。栄養疫学とは統計学を駆使し因果関係を検証しようとする学問である。博士研究を行って卒業するには、ほとんど取得する科目は決まっていたが、少しぐらいの自由は与えられていた。少ない選択科目からどれを選ぶのか迷っていた時に、センが経済学部で授業をオファーしていることを知り、偶然にも素晴らしいチャンスに恵まれたことに喜んだ。しかし、必須科目の単位を優先し、結局はセンの授業を単位として受けなかった。しかし2005年自分の研究でハーバードに滞在中、ケンブリッジキャンパスでオファーされたセンの国際開発セミナーに数回参加したことがあった。しかし授業を単位として履修しなかったことを、今でも後悔している。
米国の大学の授業の単位習得については、単位として受講すると、単位数に見合った課題や試験を受ける。たとえば中間試験、期末試験などがそれにあたるが、試験の内容はまちまちであり、論文になる時もある。恐らくセン教授の場合は論文になると思うが、それは学生にとってチャンスでもある。というのはアメリカの大学の教授は、学生が書いた論文を丁寧に読み真摯にコメントをつけて返してくる。私はこの機会を失ってしまった。自分の考え方に、セン教授のフィードバックがもらえるのは人生で大変貴重な経験であったのであるが。。。
アマルティア・センの永遠の研究テーマ「貧困の経済学」
アマルティア・センは、自分が育ったインドが植民地支配下にあったという経験を持っている。この経験が彼の研究テーマである「貧困の経済学」に大きな影響を与えました。インドでは長い間、社会的・経済的な不平等が深刻な問題として存在しており、センはこの不平等が人々の生活にどのような原因と影響を及ぼすのかを特定し、理解することの重要性を強く感じました。
センの研究は、貧困問題に新しいアプローチを提供した。彼は自身の母国での経験から、不平等や社会的な制約が人々の生活にどのような影響を与えるのかを明らかにしている。センの研究は、貧困の経済学を通じて、社会的正義や人間の発展を促進するための取り組みを支えている。彼は稀有な学者であり、彼の研究は今でも貧困問題に取り組む人々にとって重要な指針となっている。
資料
Amartya Sen https://scholar.harvard.edu/sen/home
The Capability Approach https://plato.stanford.edu/entries/capability-approach/
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