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【貧困の経済学】ケイパビリティ・アプローチで読み解くセンの思想

Amartya Sen researched on developed economics which includes capable approach, hunger, and poverty.
Photo by Emily Karakis on Unsplash

著者:吉澤和子(Kazuko Yoshizawa)
ハーバード大学博士(Sc.D.)/栄養疫学者・グローバルヘルス・ニュートリションスペシャリスト

本稿は、アマルティア・セン(Amartya Sen)の貧困・飢餓研究と、福祉経済学の方法論、そしてケイパビリティ・アプローチが国際政策へ与えた影響を、私自身の学習経験(コーネル大学での履修)と国際実務経験の視点も交えて整理するものである。

参考:Harvard Gazette(2021年6月)では、センの近況や回顧録 Home in the World: A Memoir の出版が紹介されている。

はじめに

アマルティア・センは、1998年にノーベル経済学賞を受賞した福祉経済学者であり、貧困・飢餓・不平等という現実の問題を、理論と実証の両面から問い直したことで知られる。センの議論は、経済成長だけで社会の豊かさを測ることへの疑義を突きつけ、「人が何を実際に実現できるか」という観点から社会を評価する道を切り開いた。

アマルティア・センの研究との出会いと、その影響

私がセンの論文に初めて出会ったのは1980年代後半である。当時、コーネル大学の国際開発分野で履修していた授業課題として、飢餓に関するセンの議論(いわゆる「ベンガル飢饉」を含む問題群)を読むことになった。飢餓は自然災害だけで起こるのではなく、制度や分配、アクセス(権利)によって生じうる――その視点は、当時の常識を揺さぶるもので、私に強い印象を残した。

国連の現場経験が「開発研究」の重要性を再認識させた

貧困や飢餓への関心は、若い頃から断続的に持っていた。しかし、国連・国際協力の現場を経験するにつれ、センの議論が「理念」ではなく、政策と制度設計の核心に関わる問いであることを実感するようになった。現場では、資源が不足しているだけでなく、配分・優先順位・説明責任・政治的制約が、人々の生存や尊厳に直結する。その構造を言語化する上で、センの視点は今も有効である。

福祉経済学の理論と測定:経済と哲学の融合

多くの経済学が「現象の説明と予測」に重点を置くのに対し、センは「社会はどうあるべきか」という規範的問いを経済学に持ち込み、哲学・倫理学と接続させた。ノーベル賞の評価対象も、福祉経済学・社会選択理論・飢餓の実証研究など、理論と現実を往復する射程の広さにある(受賞情報は Nobel Prize公式 を参照)。

ケイパビリティ・アプローチとは

ケイパビリティ・アプローチ(Capability Approach)は、人々の福祉を「所得」や「資源」だけで測るのではなく、「人が実際に何を実現できるか(生き方の選択肢・自由)」に焦点を当てる考え方である。政策評価においても、資源投入(inputs)や成果物(outputs)だけでなく、生活の実質的改善(functionings)や選択可能性(capabilities)を問う枠組みを提供した。

理論的背景の整理には、スタンフォード哲学百科事典の解説(Capability Approach)も有用である。

開発とジェンダー研究

センはジェンダー不平等が健康や生存に及ぼす影響にも関心を向けた。特に、子どもの生存率、栄養状態、死亡率といった人口学・保健統計の指標に注目し、社会制度や慣行が女性の生存と機会を体系的に制約しうることを示した。関連論文として、セン本人の公開ページにある “Indian Women: Well-being and Survival” や “Gender inequality and theories of justice” などが参照できる(Sen’s publications)。

人間開発指数(HDI)の概要

人間開発指数(Human Development Index: HDI)は、所得だけでなく、健康(平均寿命)と教育といった要素を組み合わせ、人間の発展をより包括的に捉えるために設計された指標である。UNDPの人間開発報告書の流れの中で制度化され、各国比較や政策議論の参照点となった(UNDP HDI)。

ただし、HDIはケイパビリティの全体を測るものではなく、制度上扱いやすい変数へと「翻訳」された一つの形である。指標化は政策実装を可能にする一方で、思想の鋭さや射程の一部を切り落とすことにもつながる。

センの貧困研究の背景:植民地支配下のインド社会

センは、植民地支配や社会的分断の影響を受けたインド社会で育った経験を持つ。こうした背景は、不平等や排除が生活機会をどのように狭めるのかを、抽象論ではなく社会の具体として考える土台となった。貧困研究は、資源不足の説明にとどまらず、権利・制度・政治・社会関係を含む構造の分析へと広がっていった。

まとめ

センの議論が重要なのは、貧困や飢餓を「自然現象」ではなく、人間がつくる制度の問題として捉え直した点にある。さらに、福祉を「所得」から解放し、人が生きる自由と選択肢に焦点を当てたことで、開発政策の言語を変えた。SDGsや国際機関の評価枠組みを理解する上でも、センの問いは現在進行形の参照点である。

著者:吉澤和子(Kazuko Yoshizawa)

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