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栄養指標がSDGs評価で歪む瞬間

ハーバード大学のキャンパスを歩く学生たち。博士号の知を社会実装へとつなぐ姿をイメージさせる風景。
Harvard Yard|著者(Kazuko Yoshizawa)撮影

執筆:吉澤和子(Kazuko Yoshizawa, Sc.D.) 栄養疫学者/グローバル・ヘルス・ニュートリションスペシャリスト

「測れる改善」が「生きられる改善」を覆い隠すとき

国際開発やSDGsの文脈において、栄養は「比較的測りやすい分野」だと見なされてきた。身長、体重、BMI、発育阻害率(stunting)、低体重率(underweight)、貧血率、カロリー摂取量。これらは数値として把握しやすく、時系列での改善も示しやすい。そのため栄養分野は、SDGsや国際機関の進捗評価において、しばしば「成功事例」として扱われる。

しかし、その測りやすさこそが、評価の歪みを生む起点になっている。

平均値が「取り残された人」を消す瞬間

SDGsの進捗報告では、栄養指標の全国平均値が改善しているかどうかが強調されることが多い。発育阻害率が数ポイント改善した、貧血率が低下した――それ自体は重要な成果である。

だが、その平均値の背後で、改善から取り残された集団が存在している場合、その事実は指標の中で不可視化されやすい。農村と都市、富裕層と貧困層、民族間、ジェンダー間の格差は、平均値の中に埋もれてしまう。

指標は「改善した」と語るが、誰が改善されたのかは語らない。
ここに最初の歪みが生じる。

「配布=改善」と見なされる構造

栄養分野では、介入の成果が比較的短期間で数値に反映されやすい。そのため、サプリメント配布、栄養強化食品、学校給食など、供給型の介入が評価されやすい構造がある。

しかし、これらの介入が示すのは「摂取された栄養素の量」であり、「人がどのような条件のもとで食を選び、継続的に栄養を得られるか」という問いではない。食料へのアクセス、家計内の配分、女性の意思決定権、ケア労働の負担といった要因は、指標の外側に置かれる。

その結果、配布されたから改善したという評価が成立し、構造的な不平等は温存されたままになる。

女性と子どもの身体が「成果指標」になるとき

特に深刻なのは、女性や子どもの栄養が「成果」を示すための指標として回収される瞬間である。母子栄養の改善は重要だが、評価の文脈では、女性の身体が「次世代の成果」を示す手段として扱われがちになる。

この構造の中では、女性自身の健康、栄養、選択の自由は副次的なものとなり、「母であること」を前提とした評価が強化される。栄養指標は改善しているのに、女性の負担や不平等はむしろ固定化される――この逆説は、数値だけを追う評価では捉えにくい。

アマルティア・センが問い続けたこと

ここで立ち返るべきなのが、アマルティア・センの問いである。センが飢饉研究やジェンダー研究を通じて示したのは、「栄養状態そのもの」ではなく、人々が適切な栄養を得る実質的な自由を持っていたかという視点であった。

彼にとって、指標は成果を誇示するための装置ではない。政策や制度が、誰の生存を支え、誰を排除しているのかを問い返すための道具であった。栄養指標や生存指標は、社会構造の歪みを映し出すためにこそ用いられるべきものだった。

SDGs評価における根本的な矛盾

現在のSDGs評価では、「測れるもの」が優先され、「測れないもの」は後景に退く。だが、尊厳、選択、声、交渉力といった要素は、まさに測りにくいがゆえに重要である。

栄養指標が改善しているにもかかわらず、現場での不満や不信が消えないとき、その原因は技術不足ではなく、何を改善と定義しているのかという評価の前提にある。

おわりに:実装と評価の時代に、何を見失っているのか

実装が重視される時代において必要なのは、より多くの指標ではない。どの指標が、誰の声を代弁しているのかを問い直す視点である。

栄養指標は強力な道具であるが、同時に危うさも孕む。測れる改善が、生きられる改善と一致しているのか。その問いを忘れたとき、指標は進歩の証ではなく、沈黙の装置になり得る。

アマルティア・センの思想が今なお重要である理由は、そこにある。彼の問いは、SDGsと栄養評価の現在を、静かに、しかし鋭く照らし続けている。

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