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なぜ今、アマルティア・センの「原点」に立ち返るのか

ハーバード大学ハーバードヤードの並木道を歩く学生たちの風景
Harvard Yard|著者(Kazuko Yoshizawa)撮影

執筆: 吉澤和子(Kazuko Yoshizawa, Sc.D.)
栄養疫学者/グローバル・ヘルス・ニュートリションスペシャリスト
(元 国連・WHOコンサルタント)


日本語サマリー

国際開発や公衆衛生の分野では、近年「実装」や「成果指標」が強く求められている。 しかし、数値として測定される改善は、本当に人々の生存や尊厳を捉えているのだろうか。 本稿では、アマルティア・センの思想の原点である飢饉分析や人間開発の視点に立ち返り、 指標が本来持っていた倫理的意味を再確認する。 測定が目的化した現在の政策・評価のあり方を問い直し、 次回以降、栄養分野で広く用いられてきた体位指標をめぐる議論へとつなげる導入編である。

English Summary

In recent years, international development and public health have placed increasing emphasis on implementation and measurable outcomes. However, an important question often remains unasked: do these indicators truly capture human survival and dignity? This article revisits the intellectual origins of Amartya Sen’s work, beginning with his analysis of famine and human development, to reconsider the ethical foundations of measurement. By reflecting on what indicators were originally meant to reveal, this first essay sets the stage for a critical examination of anthropometric indicators in nutrition in the following articles.


近年、国際開発や政策の現場では「実装(implementation)」が強調されるようになった。エビデンスに基づく政策立案、費用対効果の可視化、スケーラビリティの確保。開発、栄養、公衆衛生、さらにはESGやSDGsの文脈においても、「何がどれだけ改善したのか」を示す数値指標が重視されている。

しかしその一方で、次の問いはしばしば置き去りにされる。「その指標は、誰の生存や尊厳を本当に捉えているのか」。この問いに正面から向き合った思想家の一人が、アマルティア・センである。

飢饉分析から始まった思想

センの思想は、「貧困」や「経済成長」という抽象的な議論から出発したわけではない。その原点にあったのは、1943年のベンガル飢饉の分析である。彼は、Poverty and Famines(1981)において、飢饉が食料不足によって生じたのではなく、食料へのアクセスの不平等によって引き起こされたことを実証した。

市場価格の変動、賃金の低下、社会的地位の脆弱さによって、特定の人々が食料を得る権利(エンタイトルメント)を失った結果、餓死が生じた。この視点は、政策や制度が人間の生存にどのような影響を与えるかを問う、極めて実践的な問題提起であった。

栄養・健康・生存という指標

本稿で扱う体位指標をめぐる問題は、単一の欠陥として説明できるものではない。 そこで本稿では、国際開発や政策評価の現場で繰り返し観察されてきた「ズレ」を、 分析上の便宜として、次の三つの層に整理する。

第一に gap ― 理念と、それを代理的に表そうとする指標・測定とのあいだに生じるズレ。
第二に disconnect ― 理論や理念と、現場での実装(運用)との断絶。
第三に divergence ― 本来の目的と、実装の結果として現れる方向性との乖離である。

これらは国連や国際機関において公式に定義された用語ではない。 しかし、実装と評価の現場に関わる者であれば、いずれも経験的に認識してきた問題構造である。 本稿では、この三層構造を用いることで、体位指標が「何を測り、何を測っていないのか」を より立体的に捉えることを試みる。

重要なのは、センがこの分析を理論にとどめなかった点である。彼は、誰が生き延び、誰が亡くなったのかを示すために、死亡率や生存率といった指標に注目した。ここにはすでに、栄養や健康を通じて社会の不平等を測ろうとする視点が含まれている。

この考え方は、後に国連開発計画(UNDP)による人間開発指数(HDI)へとつながっていく。HDIは、所得だけでなく、寿命や教育を組み合わせ、人間の「生きる可能性」を測ろうとする試みであった。

ジェンダーと「見えない不平等」

センの関心は、やがてジェンダーへと広がる。同じ社会、同じ世帯の中であっても、女性や女児がより不利な栄養状態や健康状態に置かれている現実がある。彼はこれを文化や慣習の問題としてではなく、制度と選択の結果として分析した。

Inequality Reexamined(1992)や、ドレーズとの共著Hunger and Public Actionでは、過剰死亡や「missing women」という概念を通じて、ジェンダー不平等が測定可能な現象であることを示した。

実装と指標の時代における再評価

現在、ESGやSDGsの枠組みでは多数の指標が用いられている。しかし、指標が増えるほど「測ること」自体が目的化し、誰のための改善なのかという問いが曖昧になる危険がある。実装が進んでいるにもかかわらず、現場での栄養不良や健康格差が十分に改善されていない事例は少なくない。

センにとって指標とは、成果を誇示するための道具ではなく、政策や制度が人間の生存と尊厳にどのような影響を与えているかを問い返すための手段であった。測定は常に倫理的問いと結びついていたのである。

おわりに:実装と評価の時代に、何を見失っているのか

指標が洗練され、実装が高度化した現在だからこそ、私たちは改めて問い直す必要がある。 それらの制度や評価は、誰の生存と尊厳を可視化し、誰の声を取りこぼしているのか


参考文献

  • Sen, A. (1981). Poverty and Famines. Oxford University Press.
  • Drèze, J. & Sen, A. (1989). Hunger and Public Action. Oxford University Press.
  • Sen, A. (1992). Inequality Reexamined. Harvard University Press.
  • Sen, A. (1999). Development as Freedom. Knopf.
  • UNDP. Human Development Reports.
  • WHO. Nutrition, Equity and Human Development.

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