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アマルティア・センはなぜ「ベンガル飢饉」を分析したのか: ベンガル飢饉・栄養・ジェンダーから始まった人間開発の思想

ハーバード大学のキャンパスを歩く学生たち。博士号の知を社会実装へとつなぐ姿をイメージさせる風景。
Harvard Yard|著者(Kazuko Yoshizawa)が撮影

執筆:吉澤和子(Kazuko Yoshizawa, Sc.D.) 栄養疫学者/グローバル・ヘルス・ニュートリションスペシャリスト


アマルティア・セン(Amartya Sen)の思想は、「貧困」や「経済成長」という抽象的な議論から始まったわけではない。その出発点にあったのは、人がなぜ餓死するのか、そしてなぜ食料が存在していても命が失われるのかという、きわめて具体的な問いであった。

本稿では、センの初期研究の中核であるベンガル飢饉の分析を起点に、彼がどのように栄養・ジェンダー・指標という視点へと思想を発展させていったのかを整理する。これは後に「人間開発」や「ケイパビリティ・アプローチ」と呼ばれる概念へと結実する、思想の原点をたどる試みである。

ベンガル飢饉は「食料不足」ではなかった

1943年に発生したベンガル飢饉では、数百万人が餓死したとされている。従来、この悲劇は干ばつや戦時下の混乱による食料不足が原因だと説明されてきた。しかしセンは、詳細な統計と歴史資料を用いて、この理解が誤りであることを示した。

センの代表的著作である Poverty and Famines(1981)では、飢饉が発生した時期にも食料の総供給量自体は大きく減少していなかったことが明らかにされている。問題は「食料があるか」ではなく、「誰がそれにアクセスできたか」であった。

センはこれをエンタイトルメント(entitlement)の崩壊として説明した。市場の価格変動、賃金の低下、社会的地位の弱さによって、特定の人々――とりわけ貧困層や周縁化された集団――が食料を入手する権利を失った結果、餓死が生じたのである。

飢餓は「栄養」の問題でもあった

センの分析が画期的だった点は、単に経済制度を批判したことにとどまらない。彼は、飢餓が所得や供給量だけでは説明できない「栄養の問題」であることを示唆していた。

実際、飢饉の犠牲者は一様ではなかった。乳幼児、女性、高齢者といった集団が disproportionately 大きな影響を受けていた。この事実は、後にセンが栄養状態・健康・生存を開発評価の中心に据える思考へと進む重要な伏線となっている。

センは初期研究の段階から、死亡率や生存率といった指標を重視しており、これは後の人間開発指数(HDI)における「健康」指標へとつながっていく視点であった。

ジェンダーと栄養:見えない不平等

センの関心は次第に、なぜ同じ社会の中で女性の方が不利な健康状態に置かれるのかという問いへと向かう。インド社会を含む多くの地域では、食料配分、医療へのアクセス、ケアの優先順位において、ジェンダー差が存在していた。

この問題を正面から扱ったのが、Inequality Reexamined(1992)や、その後のジェンダー研究である。栄養不良や過剰死亡(missing women)は、文化や慣習ではなく、制度と選択の結果として分析された。

ここで重要なのは、センがジェンダー不平等を測定可能な現象として捉えようとした点である。栄養指標や生存指標は、社会の不平等を可視化するための強力な手段となった。

指標から「人間開発」へ

こうした栄養・健康・ジェンダーへの関心は、やがて国連開発計画(UNDP)による人間開発指数(HDI)の導入へと結実する。HDIは、所得だけでなく、寿命や教育といった要素を組み合わせ、人間の生きる可能性を測ろうとする試みであった。

これは単なる指標開発ではない。センの思想において、指標とは政策が人間の生存と尊厳にどう影響しているかを問い返すための道具であった。ベンガル飢饉の分析から始まった問いは、こうして制度設計と実装の問題へと広がっていったのである。

おわりに:なぜ今、原点に立ち返るのか

アマルティア・センの思想は、抽象的な倫理論ではない。その根底には、誰が生き延び、誰が取り残されるのかという、現場からの問いがある。栄養、ジェンダー、指標というテーマは、初期研究の延長線上に自然に位置づけられる。

現在、開発や政策の分野では「実装」が重視されている。しかし、何を測り、何を改善とみなすのかという基準が曖昧なままでは、同じ過ちが繰り返される。センの初期研究を振り返ることは、現代の政策議論にとっても重要な示唆を与えてくれる。


参考文献

  • Sen, A. (1981). Poverty and Famines. Oxford University Press.
  • Sen, A. (1992). Inequality Reexamined. Harvard University Press.
  • Sen, A. (1999). Development as Freedom. Knopf.
  • UNDP. Human Development Reports.
  • Drèze, J. & Sen, A. (1989). Hunger and Public Action.
  • World Bank. Nutrition, Health, and Development.

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